どら焼きと一升餅が大人気。
どら焼きの末廣屋喜一郎〜井の頭和菓子処 末廣屋喜一郎 2002年度三鷹市商店コンクールIT部門優秀賞受賞

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01ネタになる和菓子のお話

お饅頭(まんじゅう)の起源(日本編)

日本のお饅頭の起源は2種類

日本におけるひとつめのお饅頭の起源。塩瀬。

鎌倉時代の1349年、京都建仁寺というお寺の第35代住職、龍山得見僧と言う人がいました。彼は、元寇(げんこう)で有名な当時の中国である『元』に渡りました。きっと勉強をしに行ったのでしょう。

龍山得見僧が、元から帰国するときに、彼を慕った中国人がいました。林浄因と言う人です。とても龍山得見僧を尊敬していたのでしょう。浄因は、なんと彼を慕って日本にまでついてきたのです。

そうです・・・その浄因が、のちに饅頭の始祖と呼ばれます。

浄因は、その後奈良に定住したのですが、やはり異国の地で生きていくことは大変でした。彼は、生きていくためにいろいろ考えたのでしょう。

そして、中国で覚えた饅頭を作って売ることを思いついたのです。浄因は、その饅頭を奈良饅頭として売り出しました。浄因の饅頭は、小麦をこねて餅状にして、煮小豆を煮詰めた餡をいれて、蒸かしたものと言われています。

浄因の子孫は、後に帰化し、塩瀬姓を名乗り、奈良から京都へ商いを拡大し、着々と饅頭屋の地位を固めていったのです。

もちろん、塩瀬は現在でも続いており、とても有名な和菓子のお店です。

日本におけるふたつめの饅頭の起源!虎屋。

実は饅頭には、もう一つの系統がありました。こちらも有名な虎屋饅頭です。

やはり鎌倉時代、仁治2年(1241年)、宋から帰国した臨済宗東福寺を開いた禅僧、聖一国師弁円と言う人がいました。彼は、宋からの帰り道に博多の茶店に立ち寄りました。当時、中国は、福岡の方が日本の玄関だったのでしょう。


聖一国師は、茶店の主人である栗波吉右衛門に、歓待されたお礼として小麦粉をこねて甘酒をいれて発酵させて饅頭をつくる製法を教えてあげました。現在の酒饅頭です。

のちに「虎屋」を名乗ってこの饅頭を売り出しました。これが虎屋饅頭の起源でもあり、もう一つの饅頭の起源と言われています。

栗波家が廃絶したあとも、饅頭と虎屋の称号は広まっていきました。

その一番有名お店が、虎屋(黒川)ですね。現在でも、とても有名な和菓子屋さんです。

お饅頭も天下分け目の関が原!

後の関が原の戦いで、虎屋(黒川)は石田光成につき、塩瀬は徳川家についたと言われています。後に、塩瀬は江戸に徳川家と共に移り、虎屋は京都に残ったとのことです。

お饅頭も天下分け目の関が原の戦いで、別々の陣につき、時代の流れに巻き込まれていったのです。

 

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