どら焼きと一升餅が大人気。
どら焼きの末廣屋喜一郎〜井の頭和菓子処 末廣屋喜一郎 2002年度三鷹市商店コンクールIT部門優秀賞受賞

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01ネタになる和菓子のお話

和菓子の歴史(簡易版)

菓子の祖

わが国に菓子の祖は、兵庫県豊岡市三宅の中嶋神社に祀られている田道間守命(たじまもりのみこと)と言われています。

田道間は、第11代垂仁天皇の時代の人で、 『古事記』『日本書紀』によると、天皇の命を受け、不老不死の理想郷である『常世 の国』(とこよのくに)へ“非時香菓”(ときじくのかぐのこのみ)を求めて旅立ったとされています。

『常世の国』とは、今日の中国南部からインドにかけてのことで、田道間守は十年の歳月を経てようやく求める品を手に入れて帰国したのですが、天皇はすでに崩御しており、持ち替えった“非時香菓”を御陵にささげると、悲しみのあまり、自ら生命を絶ったのでした。この“非時香菓”とは、現在の橘(たちばな)であるとされています。

つまり、菓子の起源は、果物でだったのです。

菓子の普及 鎌倉時代

鎌倉時代は、貴族社会から武家社会へという急激な変化と、災害・飢饉の発生が重なり、民衆がとても苦しんだ時代でした。それにより、仏教も民衆を救う仏教の宗派が生まれてきました。

鎌倉時代に生まれたたくさんの仏教の中で、和菓子に一番影響を与えたのは禅宗でしょう。禅僧は食事の前後に、麺類を食べ、また、菓子を食べながらお茶を飲んでいました。これを点心といいます。この習慣が禅宗の普及とともに、民衆に伝わり、菓子という文化が広く普及して言ったのだと考えられます。

南蛮菓子の伝来 室町時代

1543年にポルトガルの船が種子島に漂着しました。歴史の教科書では、「鉄砲の伝来」として有名ですが、和菓子の世界では「南蛮菓子の伝来」として知られています。この時代に、カステーラ、カルメール、ボール、アルヘイなどが伝わりました。これらは、当時あまり食用とされなかった卵や、貴重な砂糖をお菓子に使用している点でわが国にとって新しい文化でした。キリスト教の布教などに利用されたため、これらの菓子は、わが国に急速に普及していくのでした。

お茶とともに 戦国時代

豊臣秀吉の時代に千利休によって茶道が完成されました。当時、お茶に添えられたお菓子は、「茶の子」と呼んで点心とは区別されていましたが、このころの茶の子はとても質素なものだったそうです。しかし、この時から和菓子は、お茶と共に洗練の道を歩んでいくのです。茶道の出現もまた、和菓子にとって重要な分岐点となり、現在のお茶の綺麗な和菓子と、点心の流れを引く饅頭や団子などに受け継がれていくのです。

江戸の庶民文化 江戸時代

戦国時代が終わって、江戸時代になると太平の世となり、庶民文化が花開きました。菓子の需要は高まり、また、求肥や落雁、寒天など和菓子つくりの技術の向上や原材料の多様化とともに、質もよくなり、多様化していきました。交通が整えられたので、名所の和菓子などを食べる機会も増えたことでしょう。この時代に和菓子は成熟、完成していくのです。

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